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ダム反対運動の嚆矢(こうし) 

ダムに関する話(第1回)~

宇都宮大学名誉教授  藤原 信       

 『砦に拠る』(松下竜一)ちくま文庫・筑摩書房(1989年)を読んだ。

 安保反対で東京が騒然としていた昭和35(1960)年6月20日、大分・熊本県境を流れる津江川(筑後川の上流)の山峡の下筌ダム予定地で、九州地方建設局(九地建)は違反構造物撤去の代執行を強行し、水中乱闘事件が起こり、多くの怪我人が出た。

 世に言う「蜂の巣城攻防戦」の幕が切って落とされたのである。

 昭和28(53)年6月の集中豪雨により、筑後川の堤防が26カ所で決壊し、筑後・佐賀両平野は流出家屋4400戸、死者140人の大水害を受けた。この「28災」を契機に、筑後川治水基本計画が策定され、津江川に松原ダム・下筌ダムを建設するという構想が浮上した。(当初のダム構想は下流の大山川の久世畑だった。)

 下筌ダム建設反対運動は、ダム建設計画が明らかになった昭和32(57)年に始まったが、本格的な反対運動は、昭和34(59)年の土地収用法適用が契機である。

 この闘争を指導したのが、蜂の巣城城主の「室原知幸」(山林地主)であり、ダム反対運動の先駆的な闘いを行なった知将である。蜂の巣城の砦
hatinosu.gif

 室原は、「公共事業は法にかない、理にかない、情にかなうものでなければならない」という信条で、「法には法、暴には暴」というスローガンを掲げて抵抗した。

 「暴には暴」として、砦を築き水中乱闘事件で抵抗し、「法には法」としては、一大争訟史ともいうべき戦いで、室原はわずか10年間に80件に近い訴訟を提訴している。

 昭和34(59)年1月、九地建は土地収用法の適用に踏み切り、5月、ダムサイト地点に立ち入り、測量等支障立木の伐採を強行した。不意を突かれた反対派住民は、スギの枯れ枝に火をくべて作業班を追い落とした。6月に入ると「暴には暴」を掲げ、蜂の巣岳の急峻な山腹に砦を築き、反対派住民が立て籠もった。「蜂の巣城」築城である。

 年を越した昭和35(60)年6月20日、九地建による強制代執行は、川を挟んでの攻防となり、室原を先頭に川に躍り込んだ砦側は、青竹を振り回して作業隊を追い散らした。20日の突発的暴走は、警察側に紛争介入の口実を与え、室原らに任意出頭状が出されたので、それ以後は、砦側は静観戦術に一転したが、九地建により昼間一旦破られた砦も、夜のうちに反対派住民により修復され、果てしない長期戦になっていった。

 20日から10日間にわたって続いた激しい攻防も、社会党の代議士の仲介により、30日に建設大臣が中止命令を出して一時休戦となった。室原の束の間の勝利であった。

 7月7日に県警本部に出頭した室原はその場で逮捕され、事態は大きく変わっていく。

 その後、紆余曲折の末、下筌・松原両ダムの建設も進み、室原は失意のまま世を去ることになる。(貴重な資料5000点は「室原文庫」として関西大学に所蔵されている。)

 室原の墓誌には、朱色で以下のような刻字があるという。

 「国家 松原下筌ダム建設に対し 室原知幸が13年の永きにわたり 公権と私権の闘争を続け 終始一貫して公共事業のあり方 民主国家に於ける人権尊重を力説し ダム建設史上に大きな波紋を残して昭和45年6月29日死亡・・・」

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